化学分野における進歩性と補充実験データに関する試論
作者:牛海軍
摘要
化学分野は実験科学の性質を持つため、技術効果の評価や実験データの検討が特に重要である。そのため、出願日後に補充実験データを提出する問題は化学分野で極めて一般的であり、これは特許審査の厳格性と出願人の権益保護のバランスに関わる。本稿では、実務経験を踏まえ、化学分野において進歩性が問題となる際に出願日後に補充実験データを提出する様々な場面を整理し、考察を加える。
キーワード:化学分野、特許出願、進歩性、補充実験データ、審査基準、法律規範
1. 法律規範と審査原則
化学分野において、出願日後の補充実験データに関する法律規範と審査原則は、審査の公正性および出願人の権益保護を確保する上で不可欠である。特許審査実務における重要な指導文書である『特許審査指南』は、補充実験データの審査枠組みと基準を明確に示している。
具体的には、『専利審査指南』第二部第十章3.5節は次のように規定している。
「出願日後に出願人が特許法第22条第3項、第26条第3項等の要件を満たすために補充提出する実験データについては、審査官はこれを審査しなければならない。補充実験データが証明する技術効果は、当該技術分野の技術者が特許出願の公開内容から導き得るものでなければならない。」[1]
この規定は、特許法が発明創造を奨励し、かつ十分な公開を確保する基本原則を反映している。
したがって、『特許審査指南』は、出願日後に提出される補充実験データについて、審査官が審査対象とすべき適用場面を明確化している。
2. 審査実務
実務上、補充実験データは主に次の二つの用途で活用される。
① 特許が主張する技術効果の確認
② 最も近い先行技術との効果比較
第一の用途に関して、一般原則は以下のとおりである。
もし明細書に技術効果が明示的あるいは黙示的に記載されていない場合、当該分野の技術者が明細書の記載と出願日前の技術常識からその効果を推論できない限り、補充実験データがその効果を証明しても、進歩性評価には原則考慮されない。逆に、明細書にすでに技術効果が記載されている場合には、反証や合理的疑義がない限り、その効果は明細書から「導き得る」とみなされ、この場合には補充証拠を用いて効果を補強することが認められる。
第二の用途としては、最も近い先行技術との比較を通じて、当該発明が解決した技術課題を確定する。この際、論じられる技術効果は、特許の相違点に関連し、かつ請求される全ての技術的範囲に適用されるものでなければならない。条件を満たさなければ、その効果は技術課題の認定に用いることはできない。比較実験データについては、合理的説明がない限り、最も近い先行技術に対応させる必要があり、また比較に用いる実験条件も一致させることが求められる。
以下に、進歩性問題に対処するために審査官が受け入れる可能性のある補充実験データの典型的場面を整理する。
(1) 引用文献の具体例に対する比較実験の補充
化学分野の審査では、発明(化合物、組成物、方法、プロセスなど)に対して、審査官が最も近い先行技術として類似の文献を引用することが多い。審査官は、発明と先行文献との相違点が当業者に容易に想到可能、あるいは少数回の実験で容易に到達できると主張する。出願人は出願時に当該文献を把握しておらず、差異点に特化した比較データを提出していない場合がある。その場合、比較実験を補充提出することで進歩性を主張できる可能性がある。例えば、引用文献に基づいて本発明との差異を含む技術を再現実験し、その結果が本発明の技術課題を解決できず、また技術効果も得られない場合、審査官を説得できる余地がある。
(2) 比較例を追加し「技術効果を補強」する場合[3]
補充実験データは、ときに発明の進歩性を補強する目的で用いられる。例えば、ある組成物発明において、出願時のデータが成分の有無の比較にとどまり、成分の割合に関する十分な検討がなされていなかった場合、審査官は「特定割合は少数回の実験で容易に導き得る」として進歩性を否定する可能性がある。この場合、出願人は追加の比較実験を行い、特定割合における効果が他の範囲に比して顕著に優れていることを示すことで、進歩性を補強できる。
(3) 「非平行実験」に対応する補充データ
出願時の実施例・比較例において、複数の成分が同時に変化しているため、どの成分が技術効果に寄与したのか不明確な場合がある。例えば、成分Aと成分Bが同時に変化している場合、審査官は「効果は成分Aによるのか判然としない」と指摘する。この場合、補充実験により成分Bを固定し、成分Aの有無だけを変数とした対照実験を追加することで、成分Aの寄与を明確にし、進歩性を補強できる。
(4) 明細書に記載はあるが発明の「技術的貢献」として主張されていない効果
出願時に明細書に記載はあるが、技術的貢献として明示されていなかった効果についても、出願日後に補充データを提出し、その効果が出願日前に実験的に確認され、公開時に公衆が確認可能であるならば、進歩性評価に考慮され得る。
補充データと「意外な効果」
化学分野の補充データでは、いわゆる「意外な効果」を慎重に扱う必要がある。審査官は、データが出願時の記載範囲を超えていないかを注視する。原明細書に比較実験が記載されていない場合、補充データで「意外な効果」を主張しても認められにくい。したがって、補充データ提出時には「意外性」を過度に強調するのではなく、全体としての非自明性を立証する方向で進めることが望ましい。
また、化学分野と医薬分野では補充データの扱いが異なる。化学分野の発明は物性が比較的予測可能であるため、出願時点で十分なデータを備えるべきとの要求が強い。一方、医薬分野は生体効果に依存し、予測困難かつ変動要因も多いため、出願後の補充データが比較的受け入れられやすい傾向にある。
3. 事例
以下に、進歩性問題において補充データが有効であった事例を示す。
請求項1は以下の一般式(1)で示される親水性拡鎖剤を対象としていた。
第一次審査意見通知において、審査官は対比文献1を引用し、進歩性を否定した。対比文献1の交聯剤と請求項1の拡鎖剤との差異は、ペンタエリスリトール骨格の置換基にあった。審査官は、当業者は容易に適切な反応を選択でき、効果も得られると主張した。
これに対し、出願人は比較実験1を提出した。そこでは、対比文献1の方法に従って交聯剤を合成し、その構造を確認した上で、同様の条件でポリウレア乳液を調製し、性能を試験した。その結果、請求項1の実施例に比して、引張強度、破断伸び、引裂強度などが著しく劣り、工業的要求を満たさないことが示された。さらに、機械安定性やCa²⁺安定性においても大きく劣っていた。
審査官はこれを認め、本件出願は最終的に特許付与となった。
参考文献
[1] 『特許審査指南』第二部第十章
[2] 胡楊ほか「出願日後の補充実験データに関する審査規則解釈(一)~(六)」『中国知識産権報』2023年
[3] 金世煜「特許審査における追加実験データの考慮」『知識産権家』2023-06-28